幸畑ってどんなとこ?

「幸畑」は、”こうばた”と読みます。青森市にある地区のひとつです。

幸畑には、

  • 幸畑団地地区(幸畑1丁目~幸畑5丁目)

  • 幸畑阿部野地区

  • 幸畑谷脇地区

  • 幸畑唐崎地区

  • 幸畑松元地区

の5地区があります。

 

中でも私たちが住んでいる「幸畑団地地区」は、青森市の郊外にあり海抜60mほどの高い場所に位置しています。

昭和59年に「日本一おいしい水道水」に選ばれた横内浄水場に近い場所にあるため、蛇口をひねるといつでもおいしい水を飲むことができます。

また、地盤が固いので地震が起きてもあまり揺れることが少ないのが特徴です。

 

 

「幸畑団地地区」への交通アクセス

青森市営バス(主な行き先)

  • 青森駅発「幸畑団地」行

  • 青森駅発「横内環状線」

幸畑方面の下車バス停

  • 幸畑団地

  • 団地東通り

  • 団地西口

  • 青森大学前

   

マイカーの場合

 

①国道103号(通称:観光通り)を雲谷方面に向かい、県道44号(通称:青森環状野内線)を東方面へ。約800mほどで到着。

 

②青森中央インターをでて環状7号線(青森自動車道と並走)を東方面に向かい、途中「青森県総合学校センター」方面へ右折。約1km直進で到着。

 

環状7号線(青森自動車道と並走)を東方面に向かい、県道40号線(通称:青森田代十和田線)を南方面へ。約800mで到着。

   

幸畑の歴史

現在調査中の部分もありますので、わかり次第、追記していきます。

1873年(明治6年)3月

青森県津軽郡等一区が1小区から7小区に分けられ、幸畑村はその6小区(36村)の中に入っていた。

 

1883年(明治16年)6月

組、役場制度になり、幸畑(村)は12組の栄町役場に入った。

ちなみに12組は幸畑、筒井、駒込、松原、古舘、田屋敷、浜館、造道、栄町、小柳、沢山、戸山、戸崎、桑原、後萢、諏訪沢、築木舘、矢田前、平新田、八重田の20村からなっていた。

 

1889年(明治22年)4月1日

東津軽郡筒井村と幸畑村、浜田村、浦町奥野地域が合併をして「筒井村」となる

 

1955年(昭和30年)1月1日

筒井町、横内村が青森市に編入し、「筒井町」が消滅した。それに伴い「幸畑」も、「青森市大字幸畑」となる。

 

1952年(昭和27年)8月31日

町制施行で、「筒井村」から「筒井町」になる。

 

「幸畑」の由来

(明治生まれのあるおばあちゃんの話・・・なので、本当かどうかは定かではない・・・。)

 本州の北の果て今の青森は、昔々はまだ「蝦夷」と呼ばれており、アイヌ人達がいっぱい平和に住んでいた所であった。

でもその頃、もっと南に住んでい た大和民族が、赤旗の平家と白旗の源氏に分かれた源平の戦をして、負けた赤い旗を持った平家の落ち武者達が山越えをして逃げて来て、この辺りの山に隠れ住んだ。

 

そして何時かは源氏を打ち倒そうと槍や刀を作っていたら、今度はそこに源氏の大将の義経が追われて逃げ込んで来たので、源氏より強い者 には勝てないと思って、ここで静に暮らした。でも、自分たちの文化や生活様式を忘れないように、刀や槍は(現在の)青森市滝沢地区の川原にある砂鉄から作り、(現在の)青森市戸山地区から砥石を切り出して磨いて作った。 そして天皇も山に祀り、その山を「山王の山」と呼び、京より持ってきた神を貴船神社として祀り、衣も絹で仕立てた。

 

その絹の布を織るためには

 

 絹糸が必要 → 絹糸を紡ぐには蚕が必要 → 蚕には餌となる新鮮な桑の葉が必要

 

・・・となると、大量の桑の木を植えなければならなくなり、原野を切り開いて桑の木をいっぱい植えた。

その場所を「桑畑」と呼んでいたのだが、昔の人は桑の事を「こゎ」と呼んでいたので、「コヮバタ」と呼んだ。

 

それから幾年、「桑」も「幸」に変わり、現在の「幸畑」(コウバタ)と呼ばれるようになった。

 

(ちなみに、現在の「青森市桑原(クワバラ)」も当時は桑があり、その場所を「桑ノ原」(コヮノハラ)と呼んだ。